2012年01月02日

本格的にジャズに取り組む

本格的にジャズに取り組む

ここまでバンドマンとしてのキャリアを少し整理しておきましょう

昭和48年10月 4流キャバレーのコンボバンドのベーシスト(20歳)
昭和48年12月 3流キャバレーのコンボバンドのギタリスト
昭和49年07月 サパークラブの崩れロックバンドのギタリスト

サパークラブの仕事は楽で楽しかったけれど ジャズを勉強する場としては得るものは少なかった
同年代の気の合う仲間と 主にポップスを演奏しながら時々ジャズもどきの曲を演奏する というスタイルだからそれも当然で 10ヶ月ほど過ごしたこの店では はっきり停滞期だったと思う
だけど 嫌でも毎日演奏するので 曲を覚えたりギターの基本的技術は少しづつ上達したであろうことは間違いない
但し 店の所在地が繁華街からは離れた場所にあったため メインストリームのミュージシャンとの交流の機会は少なく 僕自身のスキルはジャズギタリストとは縁もゆかりもない 平凡な若手ギタリストというステイタスだったと思う

このサパークラブは僕等のバンドが入って1年を待たず経営不振のためクローズすることになった
経済的には残念なことだったが 自分の音楽のキャリアにとっては 良いことだったと思う
だけどこれも今思えば ということであり 当時の僕は友人とのバンドが解散を余儀なくされることに若干の寂しさを感じていたし 当面の収入源を失うことは更に大きな問題だった

それでも ギタリストとしての職場はいくらでも有った
音楽的交流は少なかったが 僕が通うジャズ理論の講座は(地元の有志のミュージシャンが無償で教える場が有り 僕はその講座の優等生だったので バンドマンの間では割合有名だった)多くのミュージシャンが受講しており その伝だと思うが 複数のバンドからオファーを受けた
僕が望む ロック系のバンドとの接点は無かったので仕方なく「金馬車」という老舗クラブのバンドのメンバーになることに決めた

時は昭和50年3月 21歳になっていました

今思えば この店が僕が本格的なジャズに接する本拠地になったんだと思う
このバンドは ヴィブラフォンのバンドマスターと4リズム+テナーサックスという素敵な編成で 色んなレパートリーが演奏可能な編成だった
しかもバンマスのヴァイブ奏者は凄腕で かなり年配の方だったが 自分でコピーしジャズのスコアを沢山作成してあった
もちろん古い年代の方なので 正式なコードの知識は無く コード表記等はかなり恐ろしいものだったが 音は水準以上に正確に採ってあったので 本当のコードの流れは容易に創造でき 演奏上の支障は少なかった

なかでも シャーリングスタイルの楽譜は 編成上とても良いサウンドがするため ステージでの演奏も楽しかった
このころから ようやくジャズって良いものだなと思えるようになった

だけど このバンドで特筆すべきはドラマーで 僕よりも一回り上の年配の方だったから 当時は33歳くらい そして10代からプロの飯を喰ってあったから 当時でもベテランだった
今の僕から見れば30過ぎの洟垂れ小僧だが 21歳の当時の僕には 随分チャンジー(爺ちゃん)だと感じていた
彼は本格的ジャズ好きで ロイ・ヘインズやトニー・ウイリアムスの大ファンだった
僕はロイ・ヘインズは知らなかったので なんだか変なシンバルを叩くチャンジーだなと思っていたが ある程度音楽がわかるようになって 彼のドラミングがロイ・ヘインズの強い影響を受けたものだと気づいたが この年になってもロイ・ヘインズの良さがわからないんだから 現在の僕は当時の僕と同じで 未だに ある程度しか音楽がわかっていないということだ
彼は僕の加入をとても喜んでくれた
バンマス以外はやる気の無いミュージシャンに囲まれて フラストレーションが溜まっていたところに 僕のような若いバリバリのギタリストが加入したことで 心から喜んで下さった
僕は僕で ジャズをやっても良いなと思い始めたタイミングだったので 直ぐに彼と打ち解けて 一緒に練習をするようになった

とりあえずは他のクラブの若いベーシストを加えて ギタートリオの形で 金馬車で昼の12時から2時間程度 毎日の練習が始まった
当時はクラブといえども大らかな時代で ミュージシャンは自分が所属していないお店でも比較的自由に立ち入りが許されていた(もちろん営業中の客席に入ることは許される筈も無い 念のため)
ミュージシャンは練習することが本分で それは店側も理解してくれていたし ミュージシャンは横のつながりが大切なので そこも店は理解してくれていた) 要は ミュージシャンがある程度 尊敬もしくは敬意をはらわれていた時代だったんだろう
残念ながらカラオケの登場で この尊敬や敬意は秒速で雲散霧消してしまったけれども・・・

練習が終われば とりあえずジャズ喫茶または普通の喫茶店で音楽談義をし 僕は住まいが遠かったので ドラマーのお宅でシャワーを使わせてもらったりしたあと それでも開店まで時間を持て余したので 一人でジャズ喫茶で時間を潰してから ステージに備えていた
僕自身のギターの練習は この当時が一番真剣にやってた
若いから上達は速かったんだろうが それで直ぐにジャズが出来るほど甘いものではありませんね

それでも約2ヶ月程度の練習を経て 地元のジャズ喫茶で初ライブを行うことになるのだから 厚かましいというか 恐れを知らないというか

次回は初ライブまでの経過と結果を中心に書くつもりです

2009年02月12日

久々のステージ

随分長い期間記事の更新を怠って 何を書いていたのか忘れてしまいました

先日 久し振りにステージがありましたので とりあえず近況報告がてら 動画をアップしておきます

http://www.youtube.com/watch?v=se7c_QgPCBk

曲名は ニカズドリーム Nica's dream

なかなか手強い曲です

最近はギターを触る時間すらなく 月に1〜2度のステージ以外では ギターケースの中に眠ったままの愛器
ご機嫌斜めで ステージでガリガリドカンと凄い音を出してしまいます
何とか宥めながら演奏しています

友人に聞くと あまりに放っておいたから ギターのジャック部分にサビかカビでも発生しているのではとのこと

う〜む マズイ・・・

2008年03月20日

これは凄いぞ ジャズ理論

これは凄いぞ! ジャズ理論

当時の僕等のバンドのリーダーは 素晴らしい才能を持った男で
年齢は僕の一つ上だったけど 話術が素晴らしく 夢を胸に抱えたファンタスティックな方だった

彼からは多くのものを学んだけど 中には大袈裟な表現も多かった

「ギターの五つのポジションって知ってる? これを知らずしてギターは弾けないよ!」
こんな問いかけから始まった与太話もある
彼曰く 一時期東京に居たころ ギターも学び(彼はヴォーカリスト兼ピアニスとだったけど どちらも上手かった だけどギターが弾けるなんて聞いてないぞ?)その時高名なギタリストに教えて貰ったんだと
詳細は明かして貰えず 当時の僕は「何のことだ どういう意味だ 俺は何も知らないんだな〜」と 多いに頭を悩まされた
後日思うに どうやらスケールを弾くポジションのことのようで それならば五つと言わず沢山有るし 別に知らなくてもギターは弾ける
実際に弾いていたし・・・

彼の話は面白い反面 時には大袈裟な表現も多く その一つ一つに一喜一憂する純な僕たちを いつも退屈させずに楽しませてくれた

そして今回の 発言だ

「リッツ君 代理コードって知ってる? ジャズはとても理論的なもので ジャズ理論をマスターしないと ジャズは出来ないよ」
なるほど 今度はそう来たか
半信ではそう感じながら 残りの半疑は また少し怪しげな話か?という期待(懸念?)もある

G7の代理コードはD♭7で これを遣うだけで魔法の用にジャズっぽいサウンドになるんだよ とのこと

「本当かいな? そんな魔法みたいなメソッドが有るとかいな?」
そう感じたから 思わず尋ねてみた

「何でD♭7がG7の代理コードになると?」
リーダー曰く 「理由は知らないけど 兎に角凄い響きになるから それで良いんだよ」
何か釈然としません

とりあえず彼がピアノでそのサウンドを聴かせてくれました
が・・・
何だか耳慣れない変な響きのコードになって これで本当にジャズっぽいって言えるのか?
正直な感想です

だけどもあれだ つまりは 僕の耳が付いていけないだけで 多分これはジャズっぽいのだろう
そう思うことにしましたが 結論から言えばその通りでした
今聴けば何の変哲も無い裏コード 当時の僕の耳には斬新(と言うよりも初めてコーラを飲んだ昔の日本人みたいな状態だと言えば 年配の方なら理解してくれるでしょう)に響いたものです

裏コードはギタリストならば直ぐに判る 減5度の関係と書くからややこしいだけで
要は5度の半音下だから 例えばGの5度はD その半音下ならばD♭

ギターのフレットに置き換えれば 例えばGの音を4弦の5フレットにとれば 5度の音は3弦の7フレット その半音下だからD♭
だけど 判るのと使えるとの間には100万光年ほどの開きが有る訳で
しばらくはバッキングの時に この裏コードを使うようにした 何だかとっても違和感があったけど・・・

そして 代理コードはこれだけに限らず沢山有るんだと
勘弁してくれよ 覚えられないよ そんな気持ちになったことは言うまでもありません
更に これは深遠なるジャズ理論のほんの一部 サワリにしか過ぎず これ以外にジャズの魔術師達は様々なジャズ理論を駆使して 縦横無尽に音を奏でているんだと
(これは後日全くのガセだと判明するんですが 当時はそう思っていました 純情!)

勘違いされると困るんで 予め書いておきますが 

「ジャズ理論なんて糞の役にも立ちませんよ!」

これが僕の持論です だけど当時はそんなこと知らないから 早速勉強してみることにしました

忘れもしない デルボという出版社のジャズ理論の本 上下2冊
だけど題名もデルボのスペルも出てこないんだから 忘れもしない というのは嘘ですね
かすかに覚えています と訂正しておきましょう

僕はこの本2冊を2日で読んで ジャズ理論の大まかな部分は理解しました
実際には読んだことをステージで使ってみて理解を深めていったのですが 読んだだけでも粗方のことは判りました
ただ耳が付いていかないだけで
そしてどんなに理論を駆使しても格好良い演奏は出来ないんだという事が徐々に判って行きましたが
この辺りのことも 今後少しづつ披露して行きたいと思います

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2007年12月14日

ジャズ界の巨人とご対面 そしてジャズ理論との出会い

緊張の中 リーダーが知り合ったジャズ界の巨人ドラマーと 対面の運びとなりました
何処にでもいる叔父さん然としたその方 M氏としておきましょう

M氏は若くて綺麗な女性を二人引き連れて 僕等が出演するサパークラブにお見えになりました

リーダーは悠然としたものですが 僕を含む他のメンバーは 身震いするほどの緊張に包まれていました

M氏の前で 恐る恐る演奏しますが 手が固まって思うように弾けません
純情なものです
それでもどーにか1回のステージを終えましたが 頭の中は「恥ずかしいな〜 笑われたかな〜」 そんな思いが渦巻いています
年輪を重ねた今ならば ベンソンの前でブリージンをリクエストされても 平気な顔で弾けるほど厚かましく(実際は弾けませんよ 良く知らないし・・・)なった僕ですが
当時の僕は純情そのもの
僕等が弾いてる内容なんて M氏は全部わかって ミスも全て見抜かれてしまっている
メンバーの全員がそんな風に思っていました

そして 待望の M氏との競演の時間が・・・

M氏の好意で 次のステージでは僕等と一緒にドラムを叩いて下さる との事
緊張で 心臓が口から飛びだしそうでした

どんなドラムを叩かれるんだろう?

自分の演奏も しっかりやらないといけませんが
2度目があるのかも判らないこの機会 巨人のドラミングやリズムを しっかりと感じなければもったいない
そう思って臨んだステージでしたが

存外でした

彼のドラミングは全然ピンと来ないし
確かにフォーバースは数えられませんでした
いや むしろ 誰にも数えられないんじゃないかな? そう思いました
何だか 時には長く 時には短く 僕の感覚では 4小節のフレーズには聞こえませんでした

それでもメンバー全員が 「やっぱり本物は違うね 難しくて全然判らなかった」 そんな感じ

まあ 後日の種明かしをすると M氏は素敵なドラマーであることは間違いないのですが
元々テクニックがある方では無く 練習不足も響き 手がもつれる 足がもつれる タコは喰う
ずっとそんな状態だったんです
そりゃあ 誰にも数えられないって!!

その後も何度も一緒に演奏や仕事をして 半年ほどたってM氏の姿が理解できました という話です

それでも 今思い返せば 僕はM氏に一番お世話になりました
ドラミングでは感動を貰えませんでしたが 可愛がって戴いて 仕事を紹介して戴き 音楽の何たるかを
教えて戴き 色んなミュージシャンに紹介して戴き 言葉では表せないほどお世話になりました

僕は 今の自分の姿を 往年のM氏にダブらせているのかも知れません
私利私欲無しに 後輩のミュージシャンの面倒を見る 僕はマダマダですが M氏はそんな方でした


大山鳴動鼠一匹 のリーダーのお騒がせはまだまだ続きます


「リッツ君 代理コードって知ってる?」

「うんにゃ 知らない!」

「音楽には理論って言うものがあって これを知らないとジャズは出来ないんだよ!」

「えっ! Realy?」

「そうだとも 勉強しなくちゃ! これからのジャズは理論だよ!」

何だかまた楽しそうな話題を提供してくれます
楽しい人だ!

という事で 次回は理論のお話を・・・
(役に立たないことだけは保証しますが 読むと楽しいかも知れない)

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タグ:ジャズ 理論

2007年10月16日

サパークラブ

歓楽街のキャバレーの仕事は 音楽的には楽だったけど 先輩や年長者に囲まれ ショーのバック演奏もあり ある程度の緊張を強いられる仕事でした

歓楽街ですから 仕事場の行き帰りには素性の怪しい人たちとも目が会うし ホステスさんや酔客との絡みも皆無ではありません

今回新たな職場は 繁華街の片隅にひっそりとある 某サパークラブの仕事でした
喧騒から離れた安らぎと 幾ばくかの寂寥感を感じる職場でした


サパークラブって何なんでしょう

一般的には 美味しい料理 美味しい酒 そして眺望もしくはロケーションを売り物にする高級店で 音楽とダンスフロアーがあるものを サパークラブと称していたようです

ほんの30年ほど以前の話ですが よくこういう営業形態が成り立ったものだと驚きを隠せません
当時の僕等のギャラは 4人編成で40万円程度だったと思いますが 今の世の中 よほど特殊な客層で無い限り 普通のバンドに40万円のギャラを払って コストパフォーマンスが成り立つとは とても思えません 旧き良き時代のお話です


サパークラブの仕事は 6時過ぎに店に入り 客の到着を待ちます

多いときには10組ほどの客が入りますが ゼロの日も皆無では有りません
僕たちは 店にいる約5時間の間 ステージに3回ほど上がりますが 残された時間 することも無く 音楽や映画の話に興じ ポーカーなどをしながら気楽な時間を過ごしました

有り余る時間は 色んな妄想話の温床にもなります
同じメンバーが雁首を揃え 毎日暇を持て余していますので 話題は尽きないのですが それでも自然とネタも尽きてきます

このバンドのリーダーは ピアノとボーカル担当でしたが 音楽的にも人間的にも素敵な人で 色んなネタ話を仕入れてきてくれました
しばらく同じメンバーで 宵の口とナイトと掛け持ちしていましたが ナイトの仕事の契約が終わり 流石に疲れますので 一旦ナイトの仕事はやめようということにしましたが リーダーは既に所帯を持っていましたので彼だけは別のナイトの口を見つけていました

彼が行き始めたナイトの店のドラマーは 僕等の一回りくらい上の年齢の方で それはもう 凄いドラマーだ

話の発端はこういうものでした

リーダー曰く 
「凄いドラマーで 音楽の造詣が深く 彼が放つフォーバースなどは とても難しくて数えられない」

それを聞いたメンバーの僕たちは 目を丸くして
「ふむふむ なるほど 本当に?」
紅顔を火照らして そのまだ見ぬ凄腕ドラマーの話に聞き入ります

どうも話を聞く範囲では その方は 僕がまだ足を踏み入れていないジャズの世界の巨人のお一人のようで 近々僕たちのバンドを見に わざわざ職場のサパークラブに来て戴けるとのこと

さあ いよいよジャズの入り口に 僕も到達したようです

だけど 嫌だな 恥ずかしいな
そんな上手い人が僕のプレイを見たらどう思うんだろう?

今考えれば 「どうとも思わない!!!」 こんなはっきりしていることが 当時二十歳の僕には理解が出来ない
素晴らしい目と耳で僕のギターを聴いた巨人は 笑うのか 蔑むのか いずれにしても 無事に済む筈が無い
僕だけではなく 他のメンバーも 同じ事を感じている様子で 怖いもの見たさの好奇心と 自分の能力に対する劣等感と羞恥心に苛まれる姿 自信満々のリーダーと 迷える子羊状態の3人のメンバー

巨人と対面する前の数日間は 何だかくっきりと色分けされた 微妙な数日間でありました

巨人との対面の話はまた後日・・・



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2007年09月10日

ナイトクラブ

曲がりなりにも プロのギタリストになった僕ですが 微妙でした

収入的には 大学生のアルバイトとしては十分な収入であり キャバレー1件の仕事だけでも 大卒の初任給を上回るギャラが貰えますので 20歳の貧乏学生にとっては願ってもないバイトです
だけど ステージに上がれば 学生も社会人も関係ありません
腕前のほうは 耳が良くて曲を覚えるのが得意という以外 これと言った売り物がない僕は 噂に聞く地方のスーパーギタリスト連中に対抗するために 色んなスキルを身につけていかなければならない立場でした
だけど もともと練習嫌いな僕は 独学でギターを覚えたこともあり これからどうやって腕前を上げていけば 先行するスーパーギタリスト達に近づけるんだろう?
漠然とした不安や不満を抱えて ギターを弾き続けていました

昼間は大学生 夜はキャバレーのギタリストという2足の草鞋は 経済的に不安がない分 随分居心地の良いポジションでした
バンドの世界は 始終店やバンドを転々とするスタイルなので 横のつながりは驚くほど豊かです
大学関係でも 友人は沢山いますので 両方の交友関係から あるバンドを紹介して貰いました

彼らのバンドは クイーン と言って もともとディスコやダンスホール そしてたまにはロックライブ等で何度も目にしていました
今は仕事が切れて ナイトクラブの仕事だけをしていましたが このバンドのギタリストが実家に帰らなくてはならなくなり ギターを探しているとのことで 僕に白羽の矢が立ちました

コテコテのブリティッシュハードロックバンドで アマチュア時代の僕から見れば 雲の上の存在のバンドでした

紹介されて彼らに逢い 上手いロックバンドのギタリストになれるのかな?という不安は有りましたが 若い僕は不安よりも希望のほうが大きかったのでしょう
彼らのバンドに入ることになりました

とは言っても 想像していたような加入ではなく 彼らのバンドの方向転換で ギタリストが脱退し 彼らの方向性に合う僕が加入したということでした

つまりは リーダーの考えは 今後はロックバンドでは仕事を取るのが難しいので アダルト向けのコンボバンドに方向転換しようと言うもので 僕にとっても好都合な方向転換でした そして本格的なロックが出来ない僕にとっては 好都合ではあるけれど ロックギタリストを目指していた僕にとっては ちょっぴり残念な方向転換でもありました


当時の僕らの地方には バンドが入っているナイトクラブが常に10軒程度有りました

法律の関係で 深夜12時を過ぎると アルコール類の提供や生バンドの演奏は禁止されていた時代で どの店も非合法の営業をしていました

たまには警察の手入れも有り その際には 大事な楽器を抱えて 裏口から飛び出して逃げるという経験が数回有ります


バンドの世界では キャバレーやクラブ等の深夜12時までの仕事を「宵の口」と言い 12時から朝までの仕事を「ナイト」と言ってました

僕は 昼は大学 夜は宵の口 で数ヶ月を過ごしましたが ナイトの仕事をするようになり 必然的に帰宅は朝になりますので 大学へは行けなくなりました
大学2年生の僕は それ以降 卒業するまで 必須科目の体育や英語と試験の時だけ大学に行く生活になりました

非合法のナイトクラブは 5件ほどの有名店以外は いたるところで 出来ては消え出来ては消えを繰り返していました
ナイトクラブと言えば聞こえは良いのですが 客のほとんどは 仕事を終えたホステスと客で 時にはヤクザも顔を出します

僕たちは 軽いロックやポップスを中心に演奏をしながら 客の求めに応じて歌謡曲の歌の伴奏なども行ないます
こういうスタイルでは僕の独壇場で バンドマンになる前に半年ほど通い詰めたパチンコ屋のBGMと その後の短いバンドマン生活で 当時のヒット曲のほとんどを イントロからエンディングまでそれらしく弾くことが出来ました

現在ほどではありませんが 当時から知っている曲は キイを変えてもほとんどのキイで演奏できましたし メロディーさえ知っていれば コードは自動的に頭に浮かんでいました
こういうミュージシャンにはあまりお目にかかったことは無いので 僕はそういう点では特異な能力を持っていたようです

念願のロックミュージックと言うわけには行きませんでしたが リーダーの軽妙な喋りとボーカル そして割合纏まった演奏が好評で あるサパークラブから 宵の口の仕事のオファーが入りました

僕は宵の口はキャバレーのバンドがありますので このオファーを受けるためにはキャバレーのバンドを抜けなければなりません
どちらのバンドも楽しかったのですが 世代が近いナイトのバンドのほうに より多くの可能性を感じ 迷った末に キャバレーのバンドは脱退することにしました

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2007年08月29日

オイルショック!

エレキギターを1本抱えて 僕はどうにか生活の目処が立つようになりました

ベースで仕事をしているときは やっぱりカリソメの楽器ですから 少しだけ後ろめたい気持ちがありましたが エレキギターは本職ですので これでしばらくは頑張ってみようと・・・

ディスコが段々と下火になり 少しアダルトなダンスホールに形態を変えていった時期で 僕はキャバレーでエレキギターを弾きながら いつかダンスホールでロックギターを弾きまくる自分の姿をイメージしていました この気持ちは忘れないようにしようと

だけど今(30年前の今ですぞ 誤解無きよう!)は キャバレーのギタリスト
これはこれで頑張らないといけない


時は昭和48年師走

折りしも石油ショックの真っ只中
スーパーからトイレット・ペーパーが消えるという珍現象が起きていました
高度経済成長を謳歌してきた日本経済の分岐点でした

僕の職場のキャバレーにも お上から達しが来て バンド演奏は午後11時までと 厳しく制限されました 省エネのためです

そうは言っても客商売

照明を落とし 音量を落として 演奏は続きます

世の中は師走で オイルショックとは言え 歓楽街は相変わらず賑わっています
だけど11時から閉店の12時までの1時間だけは お通夜のような演奏を続けることになりました

最後を締めるべき楽しいステージは 暗くなり
僕らの最終ステージは いつも選曲に苦労し 楽しくなくなりましたややもすると 音量が大きくなりがちな演奏に注意しながら 10日ほど経過しました 

バンマスの俊ちゃん この日も 人並み外れて音がでかいドラムの少年に語りかけます

「少年! 判ってるだろ? 小さく 小さく ね ね ネ!」

ステージ前も演奏中前も 1曲毎にくどいように諭しています
少年は素直に「ハイ」と頷いて 忘れもしないカーペンターズのスーパースター
美しい曲です 僕はカーペンターズは好きじゃないけど

俊ちゃんはアルトサックスをフルートに持ち替え 静かに静かに曲は進行します

そしてサビに入る前のドラムのおかずの部分で 少年がやってしまいました

♪ドッチャン ドコット ゥズタタタ バラタタン♪

少年は 意識してか 無意識か いつもの音量か それ以上の音量でドラムのフィルインをぶちかましました

俊ちゃんの顔色が変りました

僕らの演奏もつられて音量が上がりました

Don't you remember you told me love,you baby〜♪

4秒前とはうって変って 普段通りのヴォリュームの演奏です

一瞬蒼ざめた俊ちゃん
その顔に ジワ〜リと喜色が浮かび 少年を見つめ 僕らを見渡し

「良いぞ〜! もっと行け もっと行け〜!!」

ランニングスタイルに腕を抱え こぶしを握り締め 身体を振って僕らに指示します

ホールからマネージャーが飛んで来て 下からステージ上の俊ちゃんに 真剣な表情で何かを言ってます

横目でチラリと一瞥をくれた俊ちゃんは 彼を無視して 僕らを見ながら満足そうな笑みを浮かべ 更にハードな演奏を要求します

お通夜のような演奏に一番ストレスを感じていたのは 少年ではなく バンマスの俊ちゃんでした

この後 俊ちゃんは支配人から大目玉を食っただろって?

さあ? 僕は知らない
記憶は定かでは有りませんが 社会にトイレットペーパーが戻ると同時に 僕らへの演奏制限も直ぐになくなりました
期間にして1ヶ月くらいだったと思います



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2007年07月28日

キャバレーのギタリスト

最初の店は短かった

多分2ヵ月未満で次の店に移ったと思う
チェンジバンド(コチラがメインバンドだった)のピアニストが辞めるので お前ピアノ弾かないかとバンマスに言われた
僕はピアノは触ったことも無いに等しい状態だったし 特にキャバレーのバンドはショーの伴奏がある
この時は 勧進帳のように長い楽譜を見て弾かなければならないけど そんなこと ピアノが弾けない僕に出来る訳がない
長い目で見れば この時ピアノに転向して 叱られながらでもピアニストになっていれば その後の僕の人生 何かの変化があったと思うけど プラスになったかマイナスになったかは 神のみぞ知る だろう

当時は 女みたいに椅子に座って弾く楽器は格好悪いという意識があって ピアノを弾きたいなんて少しも思わなかったけど 長いこと音楽をやってると あの時半年でもピアノをやっておけば良かったかなという後悔も 無い訳ではない

バンドマンの世界は 噂が広まるのは早い
某三流キャバレーに入ったベースは ギターも弾けるし譜面も強い
そんな噂が割合広まったんだろう 恥ずかしながら僕のことです

あるバンドから引っ張りが来ました

そのバンドは 少しだけランクが上がって 2流キャバレーのそこそこ良いバンドで ギターも含めて5人編成ですが 今は良いギターが見つからないので トランペットがエキストラで入っているとのこと

聞けば 以前 大型ディスコでブラスロックを中心に先進的な演奏を聞かせていたグループらしく ジャズもロックも両方弾けるギターを探していた

僕はジャズは弾けないし ロックも中途半端
不安はベースでプロになるときよりも随分大きかったけど ギターでプロとして仕事が出来るということが大きな魅力で そのオファーを受けることにした

ギャラは月8万円 1軒のギャラでは少しだけアップ
掛け持ちの分はオマケみたいなものだから 単純にランクアップだと喜んだ

この店もバンドも楽しかった

客が入ってくれば 歌謡曲が中心になるけど それまでは クルセダーズやクインシー・ジョーンズの洒落たアレンジのナンバーがゴロゴロしてて 難しかったけど 楽しかった
初めて耳にする音楽だったけど 僕のような 中途半端なギタリストにはピッタリの曲が多かった

一応 譜面は読めませんと言って入ったバンドだったから アルトサックスのバンマスは 僕の読譜力や演奏は 随分気に入ってくれた
ただ 彼から言われたのは エレキギターはもっと斬新なことを目指せよ と言うことだった

当時 胸までかかる長髪をなびかせる僕の外見は ロッカーそのものだったし ギターもレスポールを使っていたので バンマスは僕に 曲によってはエフェクターを使って ディストーション系のギターを求めていたんだろうけど 僕はエフェクターが苦手で 唯一フェイズシフターだけはたまに使ったけど 基本的にはアンプ直でギターを弾いてた

僕の肩くらいまである大きなギターアンプだったから ディストーションは掛からなかったけど クリーントーンで頑張った

僕が曲を覚えるのが早いこと バンマスは直ぐに見抜き ヌードショーのバックのときなどは 僕に目配せするので ほとんど一人でメロディーを引き続け バンマスは 懸命にヌードショーに見入っていた
可愛いバンマスだった

このバンドのドラマーは18歳 僕より2歳下で だけど 上手かった
16歳から プロのロックバンドのドラマーとして仕事をしている人で パンチがあってタイトで 僕はこんなに格好良いドラマーと一緒に演奏したことは無かったから 彼のドラムはいたく気に入った

彼と店が終わったあと 何時間も一緒に過ごし 少しづつジャズの世界に引き込まれていった



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2007年07月16日

バンドマンの世界へ

エレキギターでディスコの箱バンドに

という僕の夢とは関係なく 僕のプロのキャリアは キャバレーのベーシストという形で始まった

何でこうなるの?と言いたいところだが はっきり「お金のため」だった

大学の学費だけは親が出してくれるが 大学へ行く交通費 教科書代 小遣い 一切合財 自分で賄わなければならない
必然的に アルバイトをしなければならないのだけど なかなか良いバイトも無い

時間だけはタップリあるから バンド仲間のアパートに入り浸って 音楽を聴いたり 話をしたり だけど 飯を食おう となると 金が無いから 食堂に行って ご飯だけを買い それに醤油をかけて喰ったりしていた

前年にしていたバイトは 夕方6時から深夜3時まで ほぼフルタイムで働いても 月に4万円を超えることは無かった

ベーシストとしての仕事は 月給7万5千円 と言う話だから それだけでも貧乏とはオサラバ出来る
弾けもしないベースの仕事に不安は有ったが そんなこと言ってられないほど困窮していたから 早速OKの返事をして キャバレーのバンドのベーシストになった

これは楽だった
譜面はコードとメロディーが書いてある簡単なもので ベースは適当に弾けば良い ギターよりも大きなエレキベースはチョッピリ重くて 最初は音の位置を間違えたりしたけど ギターのフレーズを弾くことと比べれば なんと楽なことか

何故かコードの構成音だけは 知っていたから 何の苦労も無かった

更に良いことは 休憩時間には 別のクラブに 掛け持ちと言って 短いステージを行いに行くんだけど そこではギターを弾いた

ギターとベースとドラムのトリオで 僕が弾ける歌謡曲やポップスやラテンナンバーを適当に弾くだけだから これも何でも無い仕事で ギターを弾けること自体が嬉しかった

半月後の給料日(給料は月2回制だった)に給料を貰って驚いた

7万5千円?

半月分だから37500円の筈だけど?と思ったので 直ぐに尋ねてみた

「掛け持ちやってるから 1軒が75000円 両方で15万だ!」

まあ 何と有り難い話!

当時の大卒の初任給は月7万弱だったと思う
それがいきなり月15万円

僕は貧乏を通り越して いきなり金持ちになってしまったようだ

こんな大金 どうやって使えば良いんだろう
その時は本当にそう思った

お金の話はそれくらいにして 音楽の話

キャバレーのバンドは楽だった

ロックのように レコードソックリに弾く必要は無い

それなりのリズムで それなりのメロディーを弾けばそれでOK
それすら出来ない連中が プロです と言う顔をして闊歩するのがバンドマンの世界で

そりゃあ 中には大変上手い人も居て 僕らとは別次元の存在(当時はそう思っていた)なんだけど 大方は ブラスバンド上がりや ちょっと楽器を弾いたことがある という程度の連中が 高い金を貰ってステージに立ってた

楽譜が読める これで最低限度OK
初見が利く  これならば申し分なし

雑な表現だけど こんな感じで評価されてた

僕自身は 一応 楽譜は読めない 初見なんてとんでもない というレベルで見習いのような形でプロの世界に飛び込んだわけだけど 実際は楽譜が読めたし初見も利いた
それを自分が知らなかっただけだ

たまに出てくる ヘ音記号のベース用譜面には しばし戸惑ったけど 4〜5回も見れば 何とかスムーズに弾けるようになる
何と言ってもベースの譜面は音数が少ないから 本当に簡単だった

だけど 僕が連中に対して持っていた一番のアドバンテージは
曲を覚える能力だったと思う

楽譜が読めた という事も 実際は 曲を覚える能力に長けていたという事で 聞いた事がある曲は楽譜なんて見なくても 弾くことが出来たから 結果的に

「あいつは譜面が読めないと聞いてたけど 譜面が読めるし初見も利く」 と評価されてたみたいだ

そして 僕のエレキギターの腕前は?と言うと
相変わらず初心者レベルで ロックの世界ならば 僕の同年代でステージに上がっている連中の中では最も底辺の腕前だったと思う

先はまだまだ長い


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2007年07月02日

大学生活と音楽活動

記事とは全く関係ないけど 生徒さんの画像を載せたので 僕の画像も載せておこう

H君はこれからどんどんエレキギターが上達する
僕はどんどん下手になる
二人のエレキギターを弾く力はどこかで交差するんだろうけど
彼には早く上手くなってもらいたいけど 僕もむざむざと彼に抜かれはしない
良い刺激だ



さて 僕がジャズギタリストになるまで

まだまだ話は長くなりそうなので 先を急ごう

いつのまにか どこかの駅弁大学の大学生になっていた
当時の大学は 軽音楽部や器楽部華やかりし頃で 応援団の勧誘をかいくぐって 計音楽部に入部・・・
しようなんて 更々思わなかった
折角大学生になれたのに また先輩だ 後輩だ って そんな煩わしいことが大嫌いだった

僕は高校の時のバンドでしばらくは音楽活動を続けようと思っていたし 僕の目標はあくまでも 繁華街にあるディスコの箱バンド
大学で生ぬるい音楽をする気なんてさらさら無かった

とはいえ 僕のギターはやっぱりイカサナイ 僕らのバンドもイカサナイ

月に1〜2度の米軍キャンプの仕事が唯一の収入源では 楽しかるべき大学生活も非常に制限される

貧乏に辟易して 繁華街でボーイのアルバイトを始めた
たまのステージでは休ませて貰ったが 毎日夕方の6時から夜中の3時くらいまでアルバイトをしてた
それはそれで楽しかったけど 貧乏から脱出するには至らなかった

ステージも数えるほどしか無く たまに地方のライブに招待されたり ドサ廻りのような仕事ともライブともつかないようなステージはあるけど 僕らのバンドがやるような 没個性のハードロックは 人気が低迷しつつあり ストーンズや ブルースや 何かバンドの方向性をはっきりしないと ジリ貧だな〜との危機感は 日に日に募っていった

僕が目標とする ディスコやダンスホールのバンドの連中は 僕らといくつも変らない若い連中が多かったし その年齢で かなりのレベルの演奏をしていたから 僕の夢もなかなか実現しい難いな〜と
折角大学生になれたのに ばら色の学生生活とは言い難かった

おまけにバイト先が倒産し バイトを失った僕は 半年ほどパチプロをして生活を支えていたけど そのパチンコも 電動式に変更になり 全く勝てなくなってそれも止めた

大学2年生の夏は 経済的にどん底で それでも友人のアパートにたむろして いっぱしのロッカーやヒッピーを気取った生活で 何とか糊口をしのいでいた

秋口に入り 丁度20歳を迎えようかと言う時に キャバレーのバンドの一員として仕事をしないかとの誘いを受けた
聞けば ベーシストを探してるとのこと

ベースか・・・ ベースは嫌だな 弾いたことないし 楽器も持たないし

ちょっと迷ったけど 背に腹は変えられない
バンドが持ってるベースを借りることを前提に ベーシストとして そのキャバレーのバンドの いわゆる箱バンドに入ることになった
このことをキッカケに 僕の音楽人生が急速に転換して行く



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2007年06月20日

ウッドストックとイージーライダー

エレキギターを始めた中学生時代 僕の夢は何だったんだろう

テレビに流れる加山雄三、ベンチャーズ、グループサウンズ
ラジオから流れるビートルズ
こんなものに影響を受けて 憧れて エレキギターを弾きたいと思ったのだろうが 不思議とメジャーになって 大きなステージでギターを弾きたいという思いは 一度も頭に浮かばなかった
若くして 身の程を弁えていたというか 夢の無い現実主義者なのか 自分のことなのに判らない
僕が頭に描いた最高の舞台は 小さなディスコティックのバンドでギターを弾いている自分の姿だった そして それすらも現実には難しいことなんだろうなという醒めた気持ちを持ち続けていた

高校生になってからは 少しづつ気持ちに変化が現れてきた

ジェファーソン・エアプレインのグレース・スリック

彼女の個性的な声と美貌に魅了され サイケデリックやフラワーピープルにほのかな憧れを抱くようになり 更に僕が影響を受けたのは ピーター・フォンダ主演の「イージー・ライダー」と ニューヨーク郊外のヤスガーズファームに40万人を集めたという伝説の屋外ライブ「ウッドストック」 この2本の映画だった

現実には彼らのような生き方は出来ないと言う事 糞真面目な自分の性格を考えれば自分とは180度違うような生き方に 憧れと諦めを感じながらも エレキギターを手にしている時だけは 彼らに少しだけ近づけたような妙な満足感が有った

そして ウッドストック
狭苦しいディスコでロックを弾く姿に憧れていた僕は 大勢の人たちと音楽で心を共感しあう映像に心を打たれ 一度で良いから 屋外での大観衆の前での大型ロックライブでエレキギターを弾いてみたいと思うようになっていた

いつのまにか大学生になっていた僕たちは 案外簡単に屋外ライブの機会を与えられた
市民会館の円形ホールでのライブ
観衆は常時2〜30人(総勢でも400人くらいかな) スタッフ2〜30人 通りがかりの人々が 少しだけ足を止めては立ち去っていくような そんな屋外ライブ
ショボイな〜 落ち込むな〜 それ以外に言う言葉が見つからなかった

ウッドストックとは月とスッポン
出演バンド数は10分の1なのに 観衆は1000分の1
僕の夢と現実の距離もそんなものかな?

だけどもほどなく 待望の大舞台が巡って来た

能古島 ロックコンサート

出演バンドは忘れてしまったけど RCサクセションやかなりの有名グループがエントリーされ その合間をサンハウスを筆頭とする地元の有力バンドと一部僕たちのようなアマチュアが隙間を埋めて構成される 24時間を超える長丁場の屋外ライブだったと思う

僕は当時歓楽街で夜中までアルバイトをしていたので 午前2時に仕事を終え その足で会場に向かった

おそらく前日の午後から始まったライブは 今日の夕方まで ノンストップで続けられる筈だ 他のメンバーはもちろん前日から会場に乗り込み ウッドストックしているんだろうな そんな逸る気持ちで渡舟場に駆け込むと 手筈通りに主催のスタッフが待ち構えていた

案内されたのはチャーターのモーターボート
真っ暗な夜中の海を 1台のボートに 操船者とスタッフと「ミュージシャンの僕」の3人だけで 波を蹴立てて疾走している瞬間は エレキギターを弾いてて良かった 心からそう感じていた
肝心のステージは午後からだから そんなに慌てなくても良かったんだけど

当時の僕たちのバンドの名前は「フリードエモーション」
意味? 知らない 誰かが勝手に付けた

そして ライブでの僕たちの直前のグループが「古井戸」と言う売り出し中のフォークデュオ
大学ノートの裏表紙に早苗ちゃんが何たらかんたらと言う妙な歌を唄う人たちだと言えば 思い出す人もいるだろう

彼らのステージが始まって ステージの横でスタンバイを始めた僕は 目を疑った
チラリと見えた僕達のバンド名が こともあろうか

「古井戸エモーション」になっている

何で 古井戸 の後に 古井戸エモーション がステージするんだ!
スタッフは馬鹿じゃないのか
俺達は 「フリードエモーション」 カタカナだ! しかも字も違うし

嘘のような本当の話だ

直ぐに応急の修正をして貰ったけど・・・

ステージは なかなか良かった
下手な僕達だけど 何だか 結構ウケてた
だけど 2000人くらいの観衆を前に プロの間に入ってステージに立つ こんな経験は初めてだったので エレキギターを持つ手が震えていた


ウッドストックの最終シーンはご存知ですか?
僕の記憶によれば(アテにならないこと甚だですが)

ジミ・ヘンドリクスのインストの曲が流れ
画面は つわものどもが夢のあと
ゴミ 食べかす 昔の東京の夢の島のような光景が

何だか空しさを感じさせる最後のシーンだったけど
僕達もそうでした

イベント自体は楽しかったし それなりの成功だったんだろうけど
ステージ前の高揚し続けた気持ちは コンサートの終了とともに 雲散霧消していた

子供の頃の運動会や遠足の後と 何にも変らない

こんなことを繰り返しながら 人は人生の長い道を歩んでいくんだ

珍しく哲学的な時間だった



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2007年06月17日

グレコのレス・ポールモデル

レス・ポールを手に入れたのはいつだったのか どうしても思い出せない

僕は高校の途中から レス・ポールを使い始めたけど いつごろどういう経緯で買ったのかは覚えていない

但し レス・ポールを買ったのは 実は僕の勘違いで 当時 最も好きだったジミ・ヘンドリクスは横において エリック・クラプトンをレス・ポール使いだと思っていた
ある本で 彼のウーマントーンの出し方が記載されていて それはレス・ポールを前提に書かれたものだったので てっきりクラプトンはレスポールだと思い込んでいた
後年 彼がストラト使いだと知って愕然としたけど後の祭
それでも レス・ポールで良かったと思う

レスポールは ネックが太めで 指板は平坦で チョーキングがしやすい
元々チョーキングが下手な(チョーキング下手なロックギタリストは珍しいと思うが 僕はその珍しい方の一員だ)僕は フェンダーのRがついた指板は 指が滑ってどうにも弾き難い

慣れないせいも有るかも知れないが 未だにストラトキャスターでは 上手くチョーキングが出来ない
テレキャスターの方が少しマシな気はするが あの 白い色の指板は見ただけで尻込みしたくなるほど苦手だ

ところで 当時 GRECO や GIBON など 遠くから見ればGIBSONにしか見えないネーミングのギターが氾濫していた(FENDERに対するFERNANDESみたいに)
僕の周りの高校生のレス・ポール使いの8割は グレコだったと思う
だけど ディスコやダンスホールで演奏している連中は 皆 本物のギブソンなんだろうと思っていた
ところがぎっちょん ほとんどの人が ギブソンじゃ無かったようだ

それはそうですよね ギブソン30万円 グレコ3万円ですから 誰でも買える訳がない

実際のところ 僕はエレキギターの音質を聴く耳は持ってないから ギブソンもグレコも対して変らない
ただ それまで使っていた ポヨヨ〜ンという音しか出ないギターと比べれば もう 次元が違う良い音がした
それだけで 格段に上手くなった気がした

本当にギブソンもグレコも レス・ポールは良いギターだと思う
だけど 長いエレキギター弾きとしての人生 一度は ストラトキャスターを使ってみたかったと言う気持ちは強い


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2007年06月14日

米軍キャンプの仕事

高3で大学受験も終わり 卒業式を待つだけの暇な時期に
初めて 米軍キャンプの仕事を貰った

某個人プロダクションから 友人づてに入って来た仕事だったけど 僕らのバンドとしては始めての本格的仕事だったので 練習もそこそこに積んで プロモーターが運転するミニバスに揺られて 佐世保の米軍キャンプに勇躍乗り込んだ(一旦は宿泊用の借り上げアパートに着替え等の荷物を置いて)

ゲートで厳重とも思えるチェックを受け 会場のクラブへと案内された
プロモーター氏は いかにも如何わしい雰囲気の男で キャンプに入るなり ブロークンイングリッシュを連発して通りかかる外人さんたちに言葉を掛けていた
「何だか嫌な男だな」 正直な感想

クラブに入るなり 支配人風の陽気で大柄な男が声を掛けてきた

「Oh! Welcome! Kim Cheel?」
「ハーッ???!」
「Kim Cheel? Kim cheel?」
「ノーノー 僕たちはフェローズです!」

すかさずプロモーター氏が 嫌な笑顔でフォローする

「キムチ要るか? そう聞いてま〜す!」 お前が何でなまるんだ この野郎!!

そして 僕たちの風貌 容貌を確認した支配人氏

「ナットーハード ナットーハード!」
「ん?? 納豆ハード 納豆が固い?」

今度は直ぐに気が付いた

「Not too hard!」

いかにもハードロッカー然とした僕たちのいでたちに あんまりハードにやってくれるな との要望であり 命令でもあるようです

僕はメンバーに告げます

「あんまりハードにやるな!だってよ 様子見ながらステージしよう」

クラブは もうよくは覚えていないけど300坪は有ろうかという大きなもので 一般軍人が食事をしたり酒を飲んだりする大型パブで モロにアメリカ映画に出てくる雰囲気 そしてここは外国だから煙草が安い
普段はとても変えない洋モクが 25セントで売っていた

こちらは初めてのヤンキーの前の演奏だからと ハードロックのナンバーに磨きを掛けてきたのに それを披露する機会が与えられないとは殺生な話だけど ギャラを貰う以上は文句も言えない

比較的大人しそうなレパートリーから入るけど 客の食いつきも悪い
何だか場違いな場所に居るような感じ
時間が早いせいか 客もそんなに多くないし

途中で試しに混ぜたハードロックナンバーにも反応は無かった

早速休憩時間にミーティングだ

「アメリカ人のクセに ロックを聞かないなんて こいつらは!」
「カントリーやってくれって言われたけど やったことないしね!」
「ブルースも駄目みたいだぜ 全然ウケナイ 黒人も居るけど 聴いてない」

もうお先真っ暗で 3回ステージの2回目にあたる次のステージ どうしようかと途方にくれた

仕方ないから 僕らのレパートリーの中で 少しだけカントリーの雰囲気がある CCRのプラウド・メアリーをメインにして ステージ構成をしようと思い 更に 聞き覚えがあるカントリーの曲のコードだけ紙に書いてベースに渡し インストで演奏することにした

驚くことに このカントリー(曲は忘れた)がいきなりウケて 続いてCCRのプラウド・メアリーとスージーQでは ダンスフロアーが一杯になった

こうでなくっちゃいけない 良い傾向だ

客が増えて来たこと 酒が廻ってきたこと 色んな要因があるんだろうけど 最後は軍人さんが飛び入りで「ワイプ・アウト」でドラムを叩き 僕もこの時 初めてワイプ・アウトを演奏したけど 知ってる曲だったから無難に弾けて 最高潮に盛り上がった
ロック系のエレキギターサウンドは駄目でも ベンチャーズ系のエレキギターサウンドはOKのようだった

次回から 僕らのバンドは グレードの高い将校クラブのほうに廻されるようになったから おそらく演奏は ヤンキーを満足させたんだろうと思う

色んなダンスパーティー用のレパートリーが役に立った

だけど 意外だったのは アメリカ人
ロックやブルースや(多分ジャズも) 日本人の若者が好きな音楽が 全く連中にはウケナイ もう 意外 意外 大意外

結局日本人もアメリカ人も演歌が(カントリー)好きなのかな?
自分の中でそう思った

その日は 佐世保の歓楽街を少しだけ徘徊し アパートに戻って寝た
高校生としては楽しい1日だ

2年後くらいにプロになって直ぐに判ったことだけど
僕らは1人5千円でギャラの総額は2万円 それでも嬉しかった
だけど プロモーター氏は総額10万円で請けていたらしい

それを聞いても何とも思わなかった
当時の僕ら 拘束2日間でも5千円のギャラは有り難かった

これも楽しい思い出です


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2007年06月12日

高校3年生 本格的音楽活動へ

舟木一夫じゃないけれど 高校3年生になると 急にバンド活動が活発になった

当時は学生運動も下火になり 石油ショック前で日本の経済はかなり潤っていたし 遊びが文化として根付き始めた時期かもしれない

ロングヘアーが不良の象徴のように言われた時期も過ぎ 社会的にも学生バンドに対する偏見が緩和されてきた時期でもあったと思う

色んなところで色んなイベントが開催され 僕たちのようなお粗末なバンドにも 時々ステージのお呼びがかかるようになった

定期的なものは 大型キャバレーを貸しきって日曜日の昼間に催される 大学生が主催するダンスパーティーで これは3ヶ月に1回くらいの頻度で定期的仕事になった

その他 デパートの催事にも呼ばれ はたまた たまには本格的ロックコンサートと銘打つものにも 時々は出演依頼が来るようになった


僕が見る限り 僕自身はそんなステージに立つギタリストの中では 最も下手なプレイヤーだったと思う
それはそうだろうなと自分でも思う
僕はギターは好きだったけど それはステージに立つという事であって 家で 自分の部屋で ギターを弾いていたいというタイプじゃなかったから 新曲を覚えるという以外に ギターを触ろうともしなかった
練習しても 指は動かなかったし 将来プロになろうなんて気持ちはサラサラなかったから それで良いんだと思っていた

そして またまた 僕が見る限り 僕らのバンドの ドラムもベースもヴォーカルも 彼らより下手なプレイヤーは何処にも居なかった
だから 常識で考えれば 僕らのバンドは どのバンドからも掛け離れたお粗末なバンドだった筈だけど 存外そうでも無かった

ダンスパーティーでは 上手な大学生の対バンよりもウケていたし それはダンスフロアーで踊る客の数を見れば明らかだった
僕らは下手なりにサウンドをまとめ 客が踊りやすそうなレパートリーを 適度な音量で演奏し それで 聞きやすかったんだと思う

当時は 楽器は全部自前の持込で ドラムだけは対バンのドラムを借りたけど アンプも小さめのアンプしか持ってないから その分 音も小さかった
それでも 音響の良いキャバレーでは十分な音量だったし 機材なんて使わなくても ナチュラルディストーションの 美しいソロが弾けてた
不幸中の幸い 怪我の功名だ


だけど ロックコンサートだけは歯が立たなかった
ここではアンプも会場備え付けのものを使えるし 思い切り音量を上げてプレイできるんだけど 力の無さがモロに出てしまって オマケに4〜500人は居ようかという聴衆の前では 厚かましい僕も 流石に手も足も震えてた
オマケに 慣れない大音量で 自分の音にビックリしてしまって 他のメンバーの音が聞こえなくて困ってしまった

今考えても恥ずかしいくらいの演奏しか出来なかった

当時 ロックコンサートのメインは サンハウスで 柴山さんや 後年 シーナ&ロケッツでメジャーになった鮎川さんとかが在籍する スーパーなバンドだった
時には 演奏だけならサンハウスよりも更に上手い スマッシャーズというバンドも メインを張ってたし 到底僕らが出演して拍手をもらえるようなレベルではなかった

だけど 今思い起こせば この時期が一番楽しい時期だったのかも知れない

心の片隅に いずれ俺もあんなになれるかも知れない そんな根拠の無い 楽観的観測があったことも事実だし・・・
練習もしないくせに良く言うよ みたいな話だから それは結局夢に終わりました ハイ

僕らのバンドでは 僕が飛びぬけて上手かったんだけど 僕自身 ロックが好きだと信じていたんだけど 同時に まとまったフォームを大切にする演奏に心が向いていたのかもしれないなと 今なら思うことが出来る

アレンジはほとんど僕がやってたから プレイヤー個々は 本当にレベルが低かったけど 音楽としてはまとまっていた
ただ それは諸刃の剣で 僕らがロックとしての魅力を感じさせない 中途半端なものに留まっていたのは将に 僕の音楽的嗜好に原因があったのかなとも思う

当時はそんなこと 思うはずも無く どこかに俺より下手なギターは居ないかな? と いつもそんな目で他のバンドのギタリストを見ていたけど 居なかった

だから自分自身は全然駄目なギタリストなんだと思い続けていた

エレキギターの道は遠く険しい!!

そして 高校3年生の終わりに 米軍キャンプの仕事を貰える様になり 少し経済的にも潤いが出てきた

この頃の僕の小遣いは 1ヶ月2千円くらい

バンドの仕事は 最低でも1晩でそれくらいは貰えたから 非常に有り難かった
まあ 月に1回有るか無いかの仕事だから たいしたことは無いが この余分の小遣いで 煙草を買い ディスコに行ったりマージャンをしたり 普通の高校生活を送ることが出来ていた

キャンプの仕事は 1泊することが多かったけど5千円貰えるので 非常に嬉しかった
高校生でビータ(旅)の仕事は 何だか自分が大人になったような気がしたもんだ

そして ここでの仕事で 僕の音楽観に 多少の変化があったのですが
次回以降にその顛末を書きましょう



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2007年06月04日

初めて買ったエレキギター

最初は何の楽器をやるか決めていなかったが 一応同級生5人でバンドを組み いつの間にか僕はギターになっていた
そしてエレキギターを持たない僕は バンド仲間の持つエレキギターを借りてプレイしていた いや プレイと呼べるようなプレイではなかったけど

中2の10月の修学旅行で バンドをやるぞと心に決め 12月のクリスマスには レパートリー3曲で 友人の家でクリスマスパーティーを企画して 同級生10数名の前で 初ライブを披露した

寒い中 屋外での震えながらの演奏で 手がかじかんで辛かったことを覚えているけど 聞かされるほうの同級生連中は もっと辛かっただろうな 僕達の演奏は 演奏と呼べるしろものじゃなかったし・・・

観客の中には 全校のアイドル的存在の美少女も混じってた
何を隠そう僕の初恋の女性だ 一方的片想いだけど 恋するのは自由だ
恋も音楽も自由だ 自由だ!!

いや 僕が誘った訳じゃない 誘えるわけが無い
他のメンバーが誘ってたんだろう
僕は張り切ったね 格好良いとこ見せてやろうと思ったんだろうね

この36年後に再会を果たした彼女に この時の演奏のことを覚えてるか聞いたところ 覚えていないし そんなところに行った記憶も無いと言う 良いんだ良いんだ 遠い昔の出来事さ

演奏の結果は推して知るべし 元々たいしてギターを弾けないのに いくら頑張ったって 格好良い演奏なんて出来るわけがない
音楽の辛いところですね

この時の演奏に余程懲りたんだろうね それからは1年以上も人前で演奏をすることは無かった

中3になり 僕の周りは受験一色 だけど僕やバンドメンバーに受験の色は無かった
少しづつメンバーの移動があり 最終的には ギター ベース ドラムス ヴォーカル の4人編成になっていた
このメンバーで 大学2年生になるまでの5年間 活動を続けたんだから たいしたものだ いや別にたいしたものでもないか・・・

中学校の卒業を控え 受験も終わった僕等は 学校の講堂で謝恩演奏なるものを行ってた 何だか自由に 授業の合間に演奏した
その時に 校内に他のバンドがあることも知った
まあ 僕らと似たような腕のバンドで 少しだけライバル心を感じた

そして 高校入学前の春休みのバイトでお金を貯めて 初めて自分でギターを買いに行った 大枚6千円だった
真っ赤なボディの 丸い形をした刺激的ギターだった

今思えば 「厚化粧のブス女にコロリとイカレた」ところだけど
当時の僕はこのギターを可愛がったよ
丸いから持ちにくいしバランスも悪い 真っ赤だから見栄えはするけど音はか細く 線が太い音はどうしても出ない
約1年使ったけど 手に負えなくなり 友人に2千円で売った

僕は高校は野球部で 練習中に送球を取りそこね 右手の人差し指を骨折した
忘れもしない高1の冬 僕らのバンドは初営業の仕事を取り 某会社のクリスマスパーティーにバンドとして入ることになっていた
僕の右人差し指は ギブスに固定されていた
だけどその指でギターを弾いた まだ少し痛かったけど 左手じゃなくて良かったと思う
この仕事で 初めてバンドでギャラを手にした
一人当たり3千円だったと思う 嬉しかったよ

この2ヵ月後 ひょんな事から横浜に行った僕は あの シンキ・チェン 陳信輝さんに会い 彼のギターを弾かせてもらったことは 以前書いたとおりです

http://winds-of-guitar.seesaa.net/article/38847673.html 

次に手にしたギターは 前回を教訓にして 大人しそうな女を選んだ いや女じゃなくギターを

このギターは 薄いクリーム色の上品なソリッドボディを持ち 音はどんなに強く弾いても 上品で柔らかい音が出るギターで つまり その 全く使い物にならないエレキギターだという事
だけどこのギターも 大学に入るまで使った 買い換える金が無かったんだ

2年から高校を転校した僕は 今度はウエイトリフティング部に入り 秋には何故かキャプテンに任命された

そして直ぐに左手首を複雑骨折した これは完治まで2ヶ月掛かったけど この間ギターを弾けない寂しさなんて微塵も感じなかったんだから ギターに熱を上げていたわけじゃないし 演奏活動もたいしてしていなかったんだろうことが推察される

そして高3になって 段々と刺激的音楽人生が始まる


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2007年05月29日

Gibson ギブソン Es-175? Es-125?

話は飛びますが 今日は僕が使っているギターを紹介します 1本目です(このギターはたまにしか使いません)

GIBSON ES125 1962年製 シリアルナンバー 518461

1975年に 先輩のギタリストから9万円で購入しました
「ギブソンのES−175だ」と聞かされました

gibson ギブソン es-175 es-125
僕はギターの機種には全く興味も知識も無くて 当時はようやくジャズを本格的に始めた頃だったので
「ギブソンのフルアコならば何でも良いや」みたいな感覚で譲って戴きました。
だけど このギター どこの楽器屋さんに聞いても機種が判らない
確かにES−175そのものに見えるんだけど ES−175でシングルコイルのピックアップのギターは見たこと無かったので
何なんだこのギターは?って ずっと思っていました

しばらくして 東京の有名楽器店で 僕のこのギターと似たようなものを見つけまして そのギターは「ES−125 55万円也」というものでした

gibson ギブソン es-175 es-125
へっ 随分高いんだなと思いましたが 僕のギターのほうが絶対に状態は良いなと思って 悦に入ってしまいました
結局 未だに正式な機種は判らないんですけど まあ 概して評価が低いほうの「ES−125」と言っておけば 正直者の僕としてはOKです
だけどもこの「ES−125」
はっきり言ってモノが違います
ギター本体は軽いんだけど 音には凄く重みがあります

何と言っても1962年製ですから

最近売られているES−175を弾いても 何だかオモチャを触ってるような気がするくらい このギターとは次元が違います
まあ 上を見ればキリはありませんが 僕が使うには十分過ぎる 良いギターです
gibson ギブソン es-175 es-125
さて 購入後の経過ですが

ネックの裏の中央付近に大きな凹みキズがあり ネック自体も12フレットよりハイポジションはかなり反って盛り上がっている状態でした
だけど 9万円と言う価格は 当時としては破格の安値でしたし 弦高を随分上げ気味にして高音がビラないように注意しながら使っていました
最初は ギブソンの13トップのラウンドワウンドのレギュラーゲージを張っていましたが これは3弦が28という異常なセットで 弾くのに随分苦労しました
当時は既に ライトゲージが主流で 13トップの弦のセットは種類が少なく(現在はもっと少なくなりましたが・・・) 1弦が細いセットが大嫌いな僕は
1セット2000円近くするこの弦を 泣き泣き買っていました
当時フルアコを使うオヤジ系ギタリストの多くが この弦を使い 苦労していたんではないかな
gibson ギブソン es-175 es-125
その後 パット・マルティーノを好きになった僕は 更に14トップのフラットワウンドのヘビーゲージにしましたが
コチラのセットの方が 余程弾きやすく感じました
だけど ギターのボディにかかるテンションは半端じゃ無かったようで ネックの反りが増し ボディーのアールも落ち気味に必死に耐えているES175
半年ほどで 13トップに戻し 3弦だけは バラ弦の25くらいにしました(少しは知恵も付いていました)

実はこのギターにも 一度だけ大事件がありました
gibson ギブソン es-175 es-125
最初は フルアコに慣れないせいもあり ネックの反りもあり ちょっと梃子摺るじゃじゃ馬ギターみたいな印象でした。
そして事件が起こりました

僕は当時は 歓楽街の有名クラブでセクステットの一員としてギターを弾いていました
華やかなステージと違い バンドの控え室は地下の狭い部屋でした
それでも 控え室が有るだけましですし 対バンドが演奏中は横に2人くらいが横になっても休めるくらいの広さはありました
そして 大雨による大水害で その地下室が水没しました
僕はその大雨 楽しみながら見ていたのですが 控え室に置きっぱなしのギターのことなんて これっぽっちも頭に無かった

雨も上がり さあ今夜も仕事だと思っている最中 クラブから電話が入りました
「店は今日は水害のため 休業です そして誠に申し訳ないのですが 大事なギターが完全に水没してしまいまして 勝手に楽器屋さんに修理に出しましたのでご容赦下さい もちろん修理費は全てお店で負担します」との電話です
gibson ギブソン es-175 es-125
僕は何となく不思議な感じがしました 控え室に置いていたのは僕の意思であり 水害は天才であり誰の責任でもありません
それなのに もう修理を手配してくれて 費用も全額出してくれるなんて 何て良心的なお店なんだと思いました
一つは 当時はまだ バンドマンに対して お店側が畏敬の念を保っていてくれたと言う事なんでしょうね
僕等も 当時としてはグッドな演奏をしていましたし(?)

たまたま修理に出したという楽器店が 僕の家の徒歩圏内だったので 見に行きました
もう無残としか表現しようのない有様でした
水没なんていう生易しい表現じゃありません 泥没でした ギターの中まで泥が一杯入り込み 水害の無残さを思い起こしました

「こりゃ駄目だ 弾けるように戻る筈がない もしかしたら新しいギターを買ってくれるのかな?」
そんな思いが頭に去来しました
お店の人に聞くと 東京に送ってリペアするけど3ヶ月期間が掛かると言われました
「何で?」と思いましたが 自然乾燥させるから 期間は絶対に短縮出来ないとのこと まあ仕方ありません

仕方ないから3ヶ月間は 元のソリッドギターでステージをこなしましたが もう一度フルアコの音を知ったあとでは ソリッドの音は耐え難いものでした
そして待ち遠しい3ヵ月後 僕のギターは美容整形でもしたのか?と思うくらい 美人になって 以前よりも健康になって戻って来ました
更に嬉しいことには ネックの反りも幾分修正して下さっていました
gibson ギブソン es-175 es-125
ただ 幾分改善されたこのネックの反りに関しては プロを辞めてアマチュアに戻り ギターを弾く時間が取れなくなると 次の問題が頭をもたげて来ます
現役の頃は 指の力も強く かなり弦高を上げてもなんなく弾けていましたが サラリーマンになり1ヶ月にほんの数十分しかギターを触れないなんていう状態のときは
中々梃子摺りました

そこで2本目のギター(ES−335 近々紹介します)を買い これはしばらく練習用くらいに使おうと思いました
その間を利用し 正式にリペアにも出し ネックの反りは完全に解消されました
もう信じられないくらい弾きやすくなって戻ってきました
だけど 今度はES−335に慣れてしまって このギターはビッグバンド限定で使い続けました

5年ほど前に 僕が尊敬する地元のプロギタリスト(僕の後輩です)に弾いて貰ったところ 気に入って戴いて 彼が4〜5年くらい 使ってくれました
昨日僕の手元に戻って来たこのギター プロの彼が完璧なメンテナンスを行っていてくれたようで 30年前に購入した時よりも断然に良い状態です
彼には心からお礼を言いました 僕とは心がけが違う 次回紹介する現在使用中の僕のギターは もうボロボロの状態です(音はピカピカですよ)

今夜はたまたまステージなので 久し振りにこのギターを使ってみます


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2007年05月25日

ブルーノートって 衝撃の出会い

中学3年生の頃だ

ギターの腕は あまり上達しなかったけど 音楽の知識だけは 真綿が水を吸収するように 急激に身について行ったと思う

移動ドでの読譜の基礎は 小学生時代に身についていたので 色んな雑誌に掲載される音楽コラム等を読んでは コードやメロディーのことを覚えまくっていった

そして アドリブという言葉も 雑誌中にチラホラ現れるようになり 要は そのコードの構成音と それ以外の音(そのキーのスケール内の音)を それなりに繋げていけば アドリブが出来るという知識だけは身につけた

それならば すぐに実践だ

僕は好きな曲のコードを元にして 初めての自分のアドリブを譜面に起こした

最初のコードはトニックのD7だった

僕が選んだ音はF#だ
もちろん文句は無い

コードの中の3度の音で その後ろに D7内のコードトーンと 残るメジャースケール(7度だけは当然フラットさせる)をあてはめて フレーズを作った
自信満々 レコードに合わせてソロをした
全く駄目だった どうしようもないシロモノだった

何でだろう?
僕は決して間違ってない筈だ

何度作り変えても 一向に改善の兆しは見えない
対して レコード内では それほど上手いとは思えないギターソロが セクシーに響く
何が違うんだ 一体?

そこで レコードのソロの音を取ってみた

驚いたよ

一番刺激的で美しい音は Fの音!
何か変じゃないか? Fの音は D7の構成音じゃない 元々短調の時に使う音じゃないか!
何でこの音が こんなにも刺激的に聞こえるんだ?


僕の ブルーノートとの出会いです


その日は ブルーノートのことは判らず ただ その短調の音が格好良い だけど 理由は全く判らない という段階に留まったけど それからしばらくして 本の中にブルーノートの記述を見つけた

コチラのほうは 直ぐに納得できるほど判りやすい解説ではなかった(未だに ブルーノートのことを明快に齟齬なく説明できる文章にはお目にかかったことはないが)けど 要はあの刺激的にもセクシーなフレーズは このブルーノートなるものを使えば表現できるんだと納得できただけでも良かった

もちろん その時はすでにブルーノートは使い始めていたんだけど 得体が知れただけでも嬉しかった

書いてて判るように 頭は成長を続けていたけど 相変わらず ギターの腕前は??? だった
それでも スムーズに上手には弾けなくても 音楽は理解出来てる訳だから ほとんどの曲は 簡単に弾く事が出来る
だから 回りの仲間からは 既に別格の評価は戴いていた

おりしもフォークブーム突入
僕もツーフィンガーやスリーフィンガーを含むアルペジオを少しだけ練習したけど 指で 楽譜に書かれたとおりに弾かなければならない
すなわち ギターを持って練習しなければならない
ギターもギター音楽も大好きだったけど ギターを触ることにあまり興味が湧かない僕は(とっても変ったギター小僧だ) そういう地道な練習を必要とする手法は早々に諦めた
今でもフォーク系のアコースティックギター 見ても何の興味も湧かない
僕は高校生になってからは エレキギター一本
エレキギターとファズマスターさえあれば 自分が表現したいことは表現できると思っていた


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2007年05月22日

エレキギター初心者の練習法 僕の場合

エレキギター初心者の練習法とタイトルをつけたけど 僕が最初に手にしたギターはクラシックギターだった
だけど かなり早い時期からピックを使ったので 実際は最初から エレキギターのための練習だったと思っている

僕が最初に興味を持ったのは ギターコードだった

例えば C と言うコード
コードブックの通りに押さえて ジャラーンと弾くと なるほど良い響きがする 一体何の音が出てるんだろう?と フレットを眺めながら確認すると 低いほうから

ミ ド ミ ソ ド ミ と音が並んでる

そうか Cと言うコードは ミ と ド と ソ という音で構成されているのか 自分なりにそんな納得をした
ところで 良く見ると 音は ミが3個 ドが2個 ソが1個

この音数の違いは何なんだろう? すぐにそんな疑問が湧いてきた

試しに 6本の弦を全部掻き鳴らすと 確かに和音で それなりに美しいけど 6弦のミの音を弾かずに 5弦のドから ジャラーンと掻き鳴らすと 更に美しくて落ち着いた響きがする

そうか Cという根音(ルート)を一番低い音に持ってくると もっと安定した響きがするのか

そんな発見が沢山あった

音楽の知識は 小学校高学年から中学生時代にかけて教えられた 楽譜の読み方や 音符の長さの知識が役に立ち
Tの和音 Wの和音 X7の和音などが 各々 C F G7 に該当することを知ったときは 少なからぬ感動を覚えた

和音の構成音が理解できると 次は メロディーと和音が どのように対応しているのかに興味が湧き そうか コードトーンと同じ音がメロディーに来ると響きが良いのか?という 至極当たり前のことを実感した

もちろん ご他聞にもれず 僕も最初はFのコードが押さえられず 更にBのコードはもっと難しかったけど いつの間にか不自由しない程度には押さえられるようになり
初めてギターを手にして半年経過した頃には ギターで伴奏しながら(掻き鳴らすだけです)歌える曲が10曲程度になっていた

ちょっとしたイントロや 間奏は メロディーを弾かなければならないけど 楽譜のあるものは楽譜から 楽譜に記載の無いものは自分の耳でコピーして それらしく弾いていた

考えて見れば 最初の半年間 僕はギターを弾くための練習と言うものは 全然やってない
ただひたすら 曲を弾くために 必要ならば伴奏を 必要ならばメロディーを と言う風にマスターして行き
基本練習は全くおざなりにしていた
これが良かったのか悪かったのかは どうでも良いことだけど 後年の僕のギタースタイルは 最初から特徴的に現れているなと思う

自分では コードとメロディーの関係は ほぼ理解出来たかなと思ってしばらくたったころから ロック特有(本当はブルースの)のブルーノートに出会い 僕の音楽観が根底から覆されることになってしまった 中学3年生になっていた 


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2007年05月15日

昔のディスコは生バンドだったんだぜ!!

僕らの地方にも ディスコティックなるものが出現した

昭和42年 僕が中学生の頃だ(年齢を逆算しない!!!)

大昔は ダンスホールと言えば 社交ダンスのホールのことを言ったんだけど 僕が思春期に突入した時代には 概ねダンスホールとは 若者向けの 生バンドが入った大型ホールのことを指すようになった

そして その大型ダンスホールでは 通常は地元のトップクラスのロックバンドがステージに立ち 時々 中央から 有名なグループサウンズが来演して 相当賑わったらしい
らしいと言うのは 僕自身は行った事が無いから・・・

大型のダンスホールは それなりのチェックがあって 18歳未満は入場禁止
当時13〜14歳の僕は流石に入れない
ところが 小型のダンスホールもチラホラ誕生してきて こちらも18歳未満は禁止なんだけど 随分チェックが甘い

僕には不良の姉が居て 当時高校生の姉と 姉のボーイフレンドに連れられて ディスコティック(小型のダンスホールのことを そう呼び始めた頃です)に始めて入った

「あんた! 大人っぽくしておきなさいよ!」
高校生のクセに うっすらと化粧を施した姉は 自分だって18歳未満なのに 偉そうに僕に命令したけど 僕は入り口で入場を断られるんじゃないかと ドキドキしてた

どうにか入り口をパスし 中に入って 魂消た

真っ暗で ブラックライトだけが隠微に輝き 耳をつんざかんばかりの大音量で 聴いたことも無い音楽が奏でられていた

当時のヒット曲の数々

紫の煙(ジミ・ヘンドリクス)
サンシャイン・オブ・ユア・ラブ(ザ・クリーム)
愛の聖書(クリス・モンテス)

この3曲だけは 耳に焼き付いています
特に印象に残ったのが 「愛の聖書」で 「紫の煙」や「サンシャインラブ」は ディスコで聴いた後 ラジオやレコードでも耳にすることが出来ましたが 愛の聖書だけは このディスコ以外で聴いたことが有りませんでした

おそらく シングルレコードの発売前だと思うのですが 彼らはどうやって この曲を仕入れたんだろうと 今でも謎です

この当時 僕自身はクラシックギターを1本所有していて 少しばかり練習を始めていましたが ドラムやベースギターにも興味が有りました
楽器は何でも良いから とにかくこんなステージで弾けるようになれれば良いな〜という 漠然とした夢を持ちましたが 音楽のこと 何も判らない僕には 夢のまた夢 遥か彼方の遠い話のように思っていました

ところで 大型のダンスホールは グループサウンズブームが去ると同時に あっと言う間に姿を消しました
それはそうでしょう
経費は莫大で コマーシャルベースに乗せるのは大変でしょうから

だけども 小型のディスコティックは その後もなんとか生き残り 僕らの青春時代には まだ健在でした

話は元に戻りますが 初めて入ったディスコティック
特に狭いお店だったようで ステージとダンスホールの区別も曖昧なくらいに混み合っていて ホールに立てば プレイヤーは目の前で演奏しています
大型のアンプ(昔はアンプがデカイと言うだけでステイタスでした)から繰り出される凶暴な音は僕を虜にしましたが 強烈なベース音で ディスコに行けば必ずウンチがしたくなって困りました(失礼!)
それほど 強烈な音量で あれほどの音を出せば 大概の演奏は 迫力満点で上手に聞こえるようです
僕も 彼らの上手さに舌を巻きましたもん

そして ディスコティックは当時の不良の溜まり場で 喧嘩とナンパがツキモノでした
お店には 必ず用心棒的人間が居たようですし
もちろん 紅顔の美少年である僕は そんなことは関係なく 音楽を夢中になって聴いていましたが だけど 怖かった・・・

その後 僕が成人して ディスコはほとんど姿を消しました
カラオケや良質な音源の普及が原因だったと思います

その後数年を経過し 再びディスコブームが再来しましたが その時はもう既に 生バンドではなく レコードを掛ける店になってしまい 僕の興味の対象外でした

エレキギターが欲しいけど買えない僕は クラシックギターでエレキギターの真似事をし
ドラムセットが欲しいけど絶対に買えない僕は スティックだけは買って ダンボール箱と真鍮を切ったシンバルで ドラムの練習の真似事をしていました

ミュージシャンへの憧れは 憧れとして 現実に自分がステージに立つ姿は まだ想像も出来ませんでした

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2007年05月09日

初めて覚えた曲 加山雄三 二人だけの海

加山雄三 二人だけの海

僕がピックを持って練習した最初の曲です

当時は女性週刊誌の付録なんかに 流行歌の楽譜が載ることも珍しくなく 以前は メロディと歌詞だけ という楽譜が主流でしたが エレキブームのお陰も有ってか 徐々にコードも記載されるようになって行きました
丁度 その時期に 僕は加山雄三の「二人だけの海」に出会いました コードも付いていました

二人だけの海に出会ったなどと書けば あたかもこの曲が 僕の思い出の曲 と思われそうですが 全然違います
たまたま僕の目の前に 楽譜が転がっていて 曲も知ってたし 譜面には #も♭も付いていなかったから 最初の練習曲として選んだだけです
まあ 今思えば 良い曲ですが 当時の僕は 恋愛なんて興味ないし(その数ヵ月後に 僕は思春期に突入しましたが)

この曲は 僕にとっては不思議な曲でした

出だしのコードは C です 音で言えば ドミソ
だけど 出だしのメロディーは レ の音です
レーミミー と言うメロディーです
そして このレが 結構長い
当時で言う ディスコード(不協和音)です

当時としては 斬新な曲想だったんだろうなと思います

僕の回りのマセた連中は ビートルズだ ベンチャーズだ 加山雄三だ と騒いでいましたが
加山雄三は 二人だけの海 ではありません
彼らにとって 加山雄三とは エレキを抱えて 「ブラック・サンド・ビーチ」を掻き鳴らすその人のことです

僕は真面目な優等生だったので 内心は興味が有ったのでしょうが この時期はまだ 猫を被って エレキのような不良の音楽に興味は無い 風を装い 二人だけの海の 引き語りを練習していました 河内音頭風の声で・・・

僕は中学2年生になって 好きな女の子が出来ました
同時に 僕の中の何かが弾けたようです

片想いとは言え 初めての恋愛を知った僕は 自分の体内に流れる血を感じました
僕の血は 激しい音楽を求めていました

ある日 僕はエレキギターのファズマスターの音に 脳天まで痺れるような恍惚感を味わいました
今で言うディストーションサウンドの始まりは ファズマスターという 黒い薄っぺらなエフェクターでした

僕が求めていた音はこれだ!
即座にそう感じました
まだ ファズマスターの存在も知らない僕は
「どうやったらこんな音がギターで出せるんだろう?」と不思議でしょうがなくて きっと最近チラホラ耳にする「12弦ギター」と言うものが この音の正体かな?なんて ピント外れなことを考えていました

この時期になって 初めて楽器を持ってステージに立てたら素敵だろうな という考えが 徐々に沸き起こってきました


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